ヒストリー・オブ・テクノ

--クラフトワークからケン・イシイまで--

このWebページでは音楽においてテクノロジーがその思想と方法論に与えた影響を考察する。音楽の中でもとくに80年代初期にシンセサイザーの普及とともに生まれたテクノとエレポップというジャンルについて述べる。最初にテクノ思想と音楽的感性を論じ、次にそれらの変貌を述べてゆく。

  1. キーワードの定義
  2. 先行研究
  3. テクノの思想とロボット願望
  4. パーソナルな全体主義の新たなる展開
  5. ニュー・サイエンスの音楽的解釈
  6. テクノからエレポップへ
  7. 一人バンドという発想
  8. ライヴとプログラム、二つの相反するもの
  9. 音楽的パラダイムの転換
  10. 参考文献

  1. キーワードの定義

    ここでテクノ、テクノポップ、エレポップなどの用語を定義しよう。

    「テクノ」とは「technology」の略であり、テクノロジーと人間との関係をコンセプトとし、シンセサイザー[*1]やリズム・マシンなど電子楽器を使って演奏される音楽である。1970年代の終わりに生まれたドイツのクラフトワーク[*2]をその始まりとするのが音楽史上の通説だ。

    実は「テクノ」という言葉を最初に意図的に使ったのが誰かは明らかにされていない。細野晴臣[*3]によれば、あるマニアックな音楽雑誌の中であるライターが使っていたらしい。[*4]テクノという用語が一般化されるまではシンセサイザー・ミュージック、コンピュータ・ミュージックなどと呼ばれることが多かったようだ。

    当時クラフトワークは自らの音楽をリピート・ミュージックと呼んでいたし、細野晴臣はYMO[*5]の音楽をメタ・ポップと呼んでくれと広言していた。しかしテクノポップという用語がリスナーの間でそれらの音楽を包括するものとして一般的になるにつれて、ミュージシャン自身も自らの音楽をテクノポップと呼ぶようになる。クラフトワークのアルバム「エレクトリック・カフェ」の中に「テクノ・ポップ」という曲があるが、クラフトワークのフローリアン・シュナイダーは次のように説明している。

    私たちの音楽は、人類や自然と共存することのできるフレンドリーなテクノロジーでできている。音はなかりポピュラーであり、だからテクノポップと呼ぶに相応しいと思う。[*6]

    テクノポップという用語は出自のはっきりしない和製英語であるが、時が立つにつれ、「テクノポップ」にかわり「テクノ」という呼び方が一般的になってくる。第二次テクノブームと呼ばれる現在では「テクノポップ」は1980年代の古いタイプのテクノを指し示すものとして使われている。テクノポップとテクノの違いについて細野晴臣はこう言っている。

    アシッド・ハウス以降、テクノとかアンビエントに至る、最近の動きっていうのは、いままでのポップスの伝統とは明らかに違うものだったんです。まあ、どちらかというと現代音楽に近い手法なんです。その根っこやっぱりタンジェリン・ドリームあたりがいてね。だから当時はタンジェリン・ドリームはポップスとして扱えなかった。ちょっと異質なものとしてね。YMOやクラフトワークは結局ポップスの系譜の中でやってたわけです。明らかにそこにはすごい差があって、テクノ・ポップというものはポップと名前がついている限り、ポップスの延長線上のものでしかない。それが今の「テクノ」との大きな違いでね。[*7]

    「エレポップ」とは80年代初期のシンセサイザーの普及によって従来のポップミュージックが変化して生まれたジャンルである。英米ではelectric popやsynth-popと呼ばれ、日本では短くエレポップと呼ばれる。

    エレポップが登場する以前にテクノがあり、そもそもエレポップはテクノ的手法をとったポップ・ミュージックとも言える。

    またエレポップという用語もどのようにして生まれたのかははっきりとしていない。エレポップは和製英語であり、英米ではelectric popやsynth-popと呼ばれている。

  2. 先行研究

    テクノという音楽はこれまでもさまざまな人によって研究されてきた。

    椹木野衣の「テクノデリック 鏡でいっぱいの世界」[*8]はパラメディア・アートを論じ、アートとテクノロジーとの創造的関係をさぐる評論である。この評論における「テクノデリック」[*9]とは、現代のテクノロジーが、ある混乱を生じさせ、容易には脱出不可能なバッド・トリップの回路を開きつつあるということを指し示す言葉である。彼によればこのバッド・トリップの回路は、現代におけるテクノロジーがサイバネティックスを一大原理とするという点に由来している。やや長くなるが引用する。

    ここでの「テクノ」とは「テクノ・ポップ」の略称であり、より正確には「テクノ・ポップアート」の略称である。とはいえ、その意味するところは、かならずしもテクノロジーを駆使したポップアートということではなく、むしろ高度なテクノロジーをかならずしも駆使することなくして、テクノロジーのイメージを再現しようとするものだった。テクノロジーが完全に透明なインターフェイスとして機能するならば、それはもはや自然と同義である。ここに逆説がある。テクノロジーが可視のものであるためには、それは不完全でなければならず、この不完全さが生みだす一種のぎこちなさ、不自然さを、にもかかわらずわれわれはテクノロジーの先進性として捉えてしまう。ありとあらゆる未来世界のはらむ本質的ぎこちなさ、滑稽さは、このことに起因しており、このテクノロジーの不完全さによるぎこちなさ、滑稽さを積極的に露呈する試みこそが「テクノ」と呼ばれるべきなのである。[*10]

    佐久間秀夫の「テクノ・ディスク・ガイド」[*11]はテクノの名盤ガイドである。テクノを思想的なものとしてとらえ「サウンド的な部分もさることながらよりメンタルな部分がテクノか否かの分かれめ」と解説する。テクノという言葉は未来を感じさせ、未来に向かって突き進む、常に前に向かって新しい試みをおこなっていく精神こそがテクノであると指摘する。また今のテクノはハード面だけの進歩でなく、音楽そのものを進歩させようしていると結論づける。

    「STUDIO VOICE」Vol.235 JULY 1995[*12]の「TECHNO THE BIBLE」特集ではテクノ・カルチャーの提示した可能性と限界は、ポップ・カルチャー神話の素朴な揺らぎであるとし、テクノは最新の音楽というより、最新の発想であると結論づけている。

    ペヨトル工房から出版された「銀星倶楽部11テクノポップ」[*13]はクラフトワーク、YMOをレトロ・テクノとしてとらえ、体=方法、脳=思想に与えた強い刺激による影響力を音楽的に社会的に読み解こうとする書物である。

    このようにテクノに対する研究や評論はいくつかあっても、ことエレポップに関しての研究はほとんどなく、エレポップというジャンル自体も1980年代の終焉とともに消えていったジャンルである。なぜテクノは復活[*14]したのにエレポップは下火になったままなのか、はおいおい述べていくが、その前に数少ないエレポップに関する先行研究を見てみよう。

    前述の「銀星倶楽部11テクノポップ」には「エレポップ」(なぜかelectric popではなくelectronic popとなっている)という章がありエレポップについて数ページをさいている。その中で「エレポップ」をテクノの手法が解りやすいカタチでコマーシャルな音楽に結びついていったジャンルだと定義したうえでいくつかのアーティストを紹介している。

    宝島社から出版された「このCDを聴け!」[*15]はいわゆる名盤ガイドであるが、「エレポップ/ユーロビート」の章でスクーデリア・エレクトロの石田小吉がエレポップについて解説している。エレポップを80年代特有の音楽だとしたうえでその特徴を「緩さ」であると断言する。「エレポップは打ち込み[*16]でポップなだけじゃなくて、打ち込みの職人とか、プログラミングに命を懸けてるやつが作ってる狂った音楽なんですよね」という指摘はするどい。ただしエレポップとユーロビートを同一の次元で解説しているのが少々気になるところである。

  3. テクノの思想とロボット願望

    テクノのミュージシャンは多分にアイロニーを含んでのことだが、自らをロボットとして演出し、ロボットが演奏する機械の音楽としてテクノを表現していた。

    テクノの祖であるクラフトワークは「マン・マシン」というアルバムから、わかるようにサイバネティックスに大きな影響を受けていた。

    サイバネティックスは通信・自動制御などの工学的問題から、統計力学、神経系統や脳の生理作用までを統一的に処理する理論の体系である。サイバネットとはギリシャ語のkubernet(舵をとる人)がその語源であり、外部環境の変化に対応しながら、ある目的を達成するために最適の動作をとるよう自ら制御していくことに関する理論で、この理論は第二次世界大戦中、高射砲で戦闘機を射撃するとき、戦闘機の未来位置を予測して発射することからヒントを得たといわれる。戦後、ミサイルをはじめ自動機械やロボットなどのオートマトンに応用された。[*17]

    クラフトワークのフローリアン・シュナイダーはこう言っている。

    機械と人間の相互作用は、確かにサイバネティックスな状況で語ることができるだろう。両者は互いに影響し合っている。たとえば車を運転したり楽器を演奏することも、人間と機械の関わりあいだといえる。音楽が人間の体に及ぼす影響は、ディスコなどを例にとると明らかだ。みんな音楽のリズムに合わせて体を動かしている。サイバネティックスについては数多くの小説があるし、このテーマは人類がはじめって以来存在し続けているもので、いまだに研究されるべき多くの問題がある。また人間の体や脳は、コンピュータと比較することができるだろう。私たち人間の体内にも電気は流れているし、思考のプロセスや、はりめぐらされた神経回路も、電気的な性質を持っている。だからこそエレクトロニック・ミュージックと人間とは非常に明らかな関係がある、といえる。[*18]

    ここでは、シュナイダーが人間を神秘的な存在でもブラックボックスでもなく、ロジカルな分析可能な存在としてとらえていることがわかる。クラフトワークのコンセプトの一つとして人間と機械の関係があるのである。

    またさらに直接的なメッセージとして、インタヴュアーの「もし(クラフトワーク)と共演する可能性があるとすれば、どんなプレイヤーか聞かせてください」という質問にたいし、シュナイダーは次のように答えている。

    ロボット、コンピュータ、シンセサイザー、アンドロイド。彼らが私たちのゲストになるだろう。[*19]

    テクノの基本的コンプセトを提示し、存在そのものがテクノといわれる[*20]ディーヴォ[*21]はライブにおいてまるで機械のように動いたし、いでたちも非人間的で機械的であった。数時間にわたるライヴで彼らは操り人形のように不自然でぎこちなくアクションしたのである。

    YMOもテレビに出演する際[*22]、ロボット歩き=ロボットのように手足を硬直させて歩き、ロボットのように振る舞っていた。またいかにもYMOらしい企画として、無人のスタジオをたずねてイミューレーター[*23]に話を聞くというレコーディング取材まであった。

    人間が機械に擬態するというそれは現代芸術に於いてはギルバート&ジョージに見いだされるだろう。

    1969年、当時ロンドンのセント・マーティン美術学校の学生だったギルバートとジョージは、みずからが生きた彫刻として振る舞うパフォーマンスを行った。この作品「歌う彫刻」は、ギルバートとジョージの二人が、みずからの顔を金色に塗り、どこにでもあるありきたりのスーツ姿で、ひとりはステッキ、もう一人は手袋を手に、6分の間、人形のように機械的な動きを繰り返すというものであった。

    ギルバート&ジョージは、この作品の理解につながる「彫刻家の原則」を発表している。

    1. つねにスマートに着こなし、磨きあげられ、ゆったりとした親しみのある上品さ、そして完璧に自省を保つこと。
    2. 世間があなたを信頼し、その特権への配慮を怠らないように仕向けること。
    3. 評価についての議論や批評をまったく気にせず、尊敬される落ち着きを失わないこと。
    4. 創造主がまだ彫り続けていることを忘れず、しばらくは台を離れないこと。[*24]

    ギルバート&ジョージの歌う彫刻において、彼らは彫刻家であると同時に彫刻であるという二重の立場を取る。彼ら自身が自らを作るという行為は、みずからを一歩引いて客観的に見つめることに等しい。そこにメディア上の自分と本来の自分という自我の二重性が生じる。

    テクノにおいて、みずからをロボットとして演出する以上、同様に醒めた自分が存在する。ロック・ミュージシャンがライヴで歌い、叫び、汗をかいて動き、激しく自己を表現しようとするのとはおのずから違ってくるのである。もちろんロック・ミュージシャンも自分をロック的な存在として演出する。いわくセックス、ドラッグ、ロックンロールといったタームで括られるような社会への反逆者、ドロップアウトした異分子としての存在をアピールするのである。しかしそこには本当の自分と演じている自分の二重性があるばかりである。テクノにおいては本当の自分と演じている自分をさらに演じている構造が存在している。

  4. パーソナルな全体主義の新たなる展開

    テクノにおけるテクノロジーの賛美、機械への熱望というコンセプトは実験的で新しいことを生み出す一方、また別の危険な一面を持っている。

    テクノのオリジネイターであるクラフトワーク[*25]はドイツのバンドであるし、YMOは日本のバンドである。日本とドイツの共通点として高い技術力と工業生産力をもっているという共通点があり、したがって多くの電子楽器が両国から生まれている。

    たとえばドイツ製のPPGは最初に登場したデジタル・シンセサイザーの中の一つとして特筆に値する。短周期のループ波形をたくさん持ち、そのきめの粗い倍音は、アナログ・オシレーターに慣れた耳には新鮮だった。エンベロープを、さまざまなウェーブを納めたウェーブ・テーブルに通すことによって、過激な音色変化を作り出すこともできた。その他の特筆すべき特徴は内蔵デジタル・シーケンサー、オプションの波形ローディングなどである。現在は残念ながらベンチャービジネスに活動の比重が移ってしまったが、いまだに一部のマニア層にあつく支持されるトーマス・ドルビーも熱心なPPGユーザーであった。

    日本のヤマハが発売したDX7はMIDIの誕生と同時に出現して、これを強力に後押しする役目を果たした。ヤマハは、さまざまな波形を作り出すだけではなく、その波形をエンベローブ・コントロールでリアルタイムに変化させることができるFM音源をチップの中に納め、そのチップをベロシティを感知する鍵盤と一体化したのである。

    しかし日本とドイツの共通点は電子楽器だけではない。

    1983年のYMOの散開コンサートの美術はナチズムの美学が全面的に打ち出されていた。また散開の翌年に公開された散開ツアーの様子をおさめた映画のタイトルは「プロパンガンダ」である。[*26]それは散開した事実までも現実と虚構のはざまにあることをメディアを通してプロパガンダするというメッセージにほかならない。「メディアはメッセージである」と言ったのはマーシャル・マクルーハン[*27]だが、YMOは、ミュージシャンがメディア上に作られた虚像であり、そのメディアにおける戦略の重要性を熟知していた。かつてヒトラーが「大衆は女だ。おだてていい気持ちにさせろ。刃向かったら脅せ」と言っていたように。

    ドイツのDAFはより積極的に全体主義へ傾倒した。ネオ・ナチを彷彿とさせるレザー・ファッションに身を包んだ筋肉質のメンバーのジャケット写真からはファシズムの美学が感じ取れる。

    われわれは、20世紀初頭にイタリアに起こった機械文明を賛美する芸術運動「未来派」[*28]の代表マリネッティがムッソリーニに近づき、ファシズムに共鳴し、軍国主義の謳歌に転じた過去を忘れてはならない。

    第二次世界大戦のとき同盟国であった日本とドイツはともに全体主義に陥りやすいという国民性をもっている。もちろんここでテクノにファシズムの傾向が内包されていると断定するのは早計であろう。フローリアン・シュナイダーはこう言っている。

    ダダイズムやフューチャリズムなど今世紀初頭のムーブメントには非常に影響を受けた。これらの動きは以後ナチスの迫害を受けて中止させられた。長く続いてきたドイツの伝統が断ち切られてしまった。私たちは、戦前のこの動きを継続したいと思っている。私たちは第二次世界大戦直後の世代なのだから。今世紀初頭の動きが現代の建築や音楽に与えた影響ははかりしれないし、当時のアイデアの多くが今でもとてもモダンだ。[*29]

    しかし1980年代のテクノの部分においてナチズムの美学に通じる傾向が見られたのは事実である。1990年代に入りその傾向が一変することは後で考察する。

  5. ニュー・サイエンスの音楽的解釈

    イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)はリーダー細野晴臣が当時、魔術を研究した結果、白魔術でも黒魔術でもない黄魔術というアイデアから生まれた。彼はYMO結成以前に「イエロー・マジック・カーニバル」という曲を作っている。

    おそらく彼の頭の中には白魔術=白人、黒魔術=黒人、に対する、黄色人種によるイエロー・マジックというコンセプトがあったのではないか。

    かつてニュー・サイエンティストたちがとなえた東洋神秘主義と科学技術の融合が屈折した形で音楽という形式に昇華しているといってもいいかもしれない。[*30]

    椹木野衣は「テクノデリック 鏡でいっぱいの世界」の中でイエロー・マジック・オーケストラの「イエロー」の持つ意味を次のように分析している。

    ユニット名に「イエロー」をそのまま採用したYMOは、黄金の把握の仕方が徹底的に平面的であり、なおかつ反ロマン主義的である。クラフトワークにおいていまだに感じられたドイツロマン主義の薫りは、YMOにおいては完全に脱色されている。それはいわば、ドイツにおいてその誕生を見たテクノの美学を要約する色彩としの堕落した黄色が、ついにその理想的環境を東京という極東の地に発見したかのようにすら思える。[*31]

    YMOはテクノであったが、加えてオリエンタルでエキゾティックであった。それもただオリエンタルなのではなく、外国人がみた東洋、をあえて演出していたのである。それはアメリカ人の手によるエキゾティック風サウンドであるマーティン・デニー[*32]の曲をカバーしたのはもちろん、アルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」のジャケット写真に写っているメンバーが人民服を着ていたり、風邪のときに日本人が好んでするマスクをライヴでメンバーがはめたりすることによって演出された。

    そもそもYMOは結成された時点で日本よりも世界をターゲットにとらえていたのである。YMOのリーダーである細野晴臣はこう言っている。

    申し訳ないけど、日本はいいから外国でレコード(CDはなかった)を出そうと思っていた。それほど国内の状況は違和感があったのです。それは今もまったく同じですが。[*33]

    YMOが最初に発見されたのイギリスだったし、YMOが日本に戻ってきたときは「帰国」ではなく「来日」であった。

    TOKIO発、世界経由の「黄色魔術楽団」がわれわれに見せた手品は何だったのか。

  6. テクノからエレポップへ

    テクノにおけるテクノ的なイメージは、テクノロジーの方法論よりは思想にあった。たとえば初期ディーヴォを考えてみよう。彼らはヴォーカルを中心にギター2本、そしてベース、ドラムスというきわめてオーソドックスなロックバンドの編成をしていた。にもかかわらず、初期ディーヴォがすでにテクノであったのはその楽曲の持つメッセージや、コスチューム、カバー・アート、ロゴなどを通して追求された彼らの思想自体がテクノの美学を体言していたからである。

    戸田誠司[*34]はコンピューターについてこう言っている。

    よくコンピュータだと一人で全部やれるって言われるんだけど、それは自宅でやる環境と人間づきあいが下手な人に対して言えることでね。実際スタジオでも昔から完全主義でやっていた人って多分いると思うのね。イーノ[*35]だって人間を使って完全主義でやっているだろうし、クラシックでもたとえ指揮者に関してもそれはあまり関係ないと思うよ。僕なんかはテクノロジーなりSFなり、そういうものに影響されて何かやるっていうのが一番面白いのね。[*36]

    テクノをメンタルなものとして捉えるとそれ以外にテクノをテクノたらしめているものはないという極論にも結びつく。中野泰博はこのように言っている。

    テクノの特質に「言葉や意味から解放されている」点がある。ダンスを至上目的とし、スタジオでの音色加工、音響操作、エディット作業によるハウスから派生したテクノは、かつてのロック(のみならずポピュラー音楽全般)における、メッセージ、感情、ひいては演奏という行為自体から無縁の場所からスタートした。リズムという最低限の音楽要素(これら全て打ち込みで、人間的な要素は極力排除されている)を基盤に刺激的なサンプリングをエフェクトしてゆく、かつての音楽になぞらえるとSE的な音色だけで構成されたようなこの音楽に今のところ定義は無く、それゆえに既成概念を逸脱する感覚のアーティストが続出している。[*37]

    自由であるということは一方で苦痛でもある。何をしてもいいと言われたとたんに人はすべきことを見失いとまどう。そう「人は自由であるべくのろわれている」のだ。

    YMOの初期の作品「イエロー・マジック・オーケストラ」「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」「公的抑圧」「X∞増殖」、中期の作品「BGM」「テクノデリック」などはテクノだが、散開[*38]前に発表された後期の作品「浮気なぼくら」「サービス」はエレポップであると言ってもいいだろう。

    YMOが「歌謡界に殴り込みをかける」べく作った「浮気なぼくら」は、技術的には「テクノデリック」で導入されたサンプリングを駆使するなどの高度なことをしているがそれは前面に出ずに、きわめて明るくポップでわかりやすかった。シングルカットされて大ヒットした「君に胸キュン」は恋愛の曲であったし、ビデオクリップにおいて彼らはコシミハルがコーディネイトした明るいファッションに身を包んでいた。彼らはあくまで普通のアイドルのように振る舞い、テレビ番組にパステル調のセーターを着て登場した。

    いわば彼らがアイドルに曲を書きプロデュースするような感覚で自らをポップにプロデュースしたのである。もちろんそれは彼ら一流のアイロニーであり、それはタイトルの「浮気なぼくら」でも明示的に示されているが、良くできたエレポップとしてあえて無自覚に聴くことができることができるくらいハイ・クオリティなのは、YMOがいかに才能にあふれていたかを示している。

    エレポップとはテクノが持っていたテクノロジーの思想と方法論、ポップ・ミュージックの楽曲から、テクノの方法論とポップミュージックの思想を受け継いだものとして捉えることができる。だからエレポップは実験性や革新と無縁であるし、ポップに縛られている分、迷うこともない。

    エレポップとは技術的知識としては進歩であったが、芸術的感性として回顧趣味的であったと言うことができる。

  7. 一人バンドという発想

    エレポップの発想は電子楽器を駆使すれば一人で音楽が作れるのではないか、というテクノロジーの進化が人間の労働を軽減した結果からきている。それは1980年代から手法として広まった一人バンド[*39]に如実に表れている。

    1980年にシンセサイザーを使ってオールディーズをカバーした「Music for The Parties」というアルバムを発表したシリコン・ティーンズなどはその代表的存在である。シリコン[*40]+ティーンズというバンド名にも現れているが、一人にもかかわらずあえてバンドのように振る舞い、当時のシンセサイザー、シーケンサーの限界であった薄い音を逆手に取ったチープな音楽が衝撃を与えた。音楽史的にはテクノ、ニューウェイヴに分類されることが多いシリコン・ティーンズであるが、後のエレポップに繋がる貴重な存在である。またシリコン・ティーンズの唯一のメンバーであるダニエル・ミラーはテクノ、エレポップのムーヴメントの中で重要な働きをするミュート・レコード[*41]の社長である。

    奇才トーマス・ドルビー[*42]もまた一人バンドの形態が出発点であった。彼はこう言っている。

    昔は、PPGを使った「一人バンド」という感じでツアーをやっていたんだ。PPGにロードするにはマイクロカセットを使わないといけなかった。曲と曲の間に別のマイクロカセットを入れてロードする。ナイトクラブのステージの床で、手探りでカセットを出し入れしたことがあったなあ。床は当然、ビールで塗り固められたようなところで、ストロボ・ライトが光る中にマイクロカセットが見える。マイク片手にそれを入れては、PPGにロードする曲間の3分間、なんとか観客を飽きさせないように愛想を振りまいたんだ。[*43]

    1982年にイギリスでデビューしたハワード・ジョーンズ[*44]もまた一人ライヴ派であったが、彼の場合は少し違っていた。彼のステージで、舞台に登場するのはハワード自身とマイム・ダンサーのジェド・ホイルであった。にもかかわらず彼はシーケンサーと手弾きでシンセサイザーを操り、バンド以上の音を作り出していたのである。それはもはやしかたなく一人でやるのではなく、あえて一人で作り出すという方法論の転換であった。ゆえに「たった一人のロックバンド」と彼を形容するとき、それは至上の誉め言葉なのである。

    マイク・オールドフィールドのようにマルチトラック・レコーダーを使って多重録音で一人で音楽を制作するというようなことは以前からあった。しかし一人バンドでライブをするというのはシンセサイザーとシーケンサーなくしては実現できなかったパラダイムの転換であった。

    またテクノ、エレポップにおいては、OMD[*45]の第三のメンバーがラジカセであったように、メンバーが人間以外であったりさまざまな形態がある。

    デュオもまたエレポップに特徴的な形態の一つである。デュオのロックバンドというのはめったに見られないが、ティアーズ・フォー・フィアーズ[*46]やペットショップ・ボーイズ[*47]のようにデュオのエレポップユニットというのはめずらしくはない。

    とくにヴィンス・クラークが1982年に結成したヤズー[*48]において確立された女性ボーカルと男性クリエイターという組み合わせのデュオという形式は、ユーリズミックス[*49]など後にエレポップの主流をなすようになる。

    かつてE.L.O.[*50]のジェフ・リンによって生まれた「世界で最小にして最高のオーケストラ」という発想はヴィンス・クラークによってより進化して結実したのである。

    ところが便利な手法として取り入れられた一人バンドはまた飽きられるもの早かった。この一人バンドの発想は現在のテクノに顕著な覆面ユニットという形態に間接的に受け継がれることになる。

  8. ライヴとプログラム、二つの相反するもの

    テクノやエレポップや持つ電子楽器による製作という形態は、観客の前で実際に演奏するライヴという形式とはまっこうから反対のものである。電子楽器の音色やシーケンスをプログラミングで作り出す音楽は、本質的に人によるリアルタイムの演奏とは無縁のものなのである。ベッドルーム・テクノという言葉もあるようにテクノそのものの密室性という一面もある。

    現代テクノのミュージシャンはクラブでターンテーブルを回すDJ的手法をとることが普通だが、それは電子楽器をもちいた音楽制作の当然の帰結でもある。しかし今のDJ的手法が決定的な方法であるとは誰にも断言できないし、このような形態におちつくまではさまざまな方法が多くのミュージシャンによって模索された。

    クラフトワークはライヴにおいてシーケンサーを用いたが、同時にマニュアルな演奏もしていた。彼らは次のように語っている。

    テクノ・ポップ・ミュージシャンにとってもっとも面白い瞬間は、コンサートの演奏中、停電になってしまう瞬間だろう。これは彼らのミスじゃないってことをどうやって観客に説明したらよいのだろう。[*51]

    彼らはライヴにおいては積極的に観客とのコミュニケーションをはかったし、ライヴの持つ一体感も忘れてはいなかった。彼らの「電卓」という曲はドイツ語バージョン、英語バージョン、日本語バージョンとリリースする国ごとに違うバージョンがあり、ライヴのときには音がでるように改造された「電卓」を客席の観客に演奏させていた。「電卓」日本語バージョンを引用する。

    コノボタン押スト、音楽カナデル。足シタリ、引イタリ、操作シテ、作曲スル

    YMOが1978年にデビューアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」を発表した当初、その高度に複雑な電子楽器の使いこなしゆえにライブ不可能と思われていたふしがある。1978年12月5日と10日にYMOは「アルファ・フュージョン・フェスティバル'78」というイベントに出演し演奏しているが、初期のレパートリーはピンクレディーの「ウォンテッド」などであった。このイベントにはA&Mのプロデューサーであったトニー・リピューマも来ており、YMOを見たリピューマがアルバムのアメリカ発売を決意するという一幕もあった。

    1979年に行われたトランス・アトランティック・ツアー(第一回ワールド・ツアー)でYMOはそのライヴでの実力を見せ付けることになる。ツアー・メンバーはYMOの細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏に加えて、矢野顕子=キーボード、渡辺香津美=ギター、松武秀樹=プログラマーの3人がサポートメンバーとして加わった。YMOが使っていた8音ポリフォニックのデジタル・シーケンサーMC-8は約5400音しか記憶できず、一度に1曲しか記憶できないため、2台のシーケンサーを用意し、1台が演奏中、もう一台がロードしていたり、MC-8ばかり使い曲が続かないように配慮されていた。演奏された曲は坂本龍一によってライヴ用にアレンジされていた。

    そのサポートメンバーの中で異色の存在だったのはプログラマーの松武秀樹[*52]である。当時はシーケンサー自体が一般化していない状態で、かつプログラマーがステージに上がるのも初めてであった。彼は動かないで何かボタンを押している奇妙な存在として話題になったのである。しかし実際にYMOのライヴを影で支えていたのは松武秀樹のシーケンスであったことは間違いない。

    彼はYMOのライヴを次のように回想している。

    MC-8がね、熱対策がなかったものですから、温度が上がってくると暴走しちゃうんですよね。それとノイズにも弱くて、ちょっとした電源ノイズで中のメモリーが飛んじゃうとかね。当時は、一回入れたものはそれで演奏したら終わり、といった感じでしたし。さすがにそういう暴走っていうのは数えるほどしかなかったですけど。ロサンゼルスから中継やったでしょ。実はあの1曲めっていうのは暴走してましてね。半拍早くコンピューターが演奏してるんですよ。それも偶然にして半拍早かったし、卜が演奏してたのはほとんどパーカッション系の音だったんで、聴いてる人にはほとんどわからなかったと思うんだけれど。幸宏だけはね、大変だったみたいですよ。あれのビデオ持ってる人はもう1回よく見てほしいんですけど、幸宏が一生懸命僕の方振り向いて「ちがう!ズレてるっ!」って合図送ってるんです。[*53]

    ディーヴォにおいてライヴはまた違った意味をもっていた。彼らのテクノはより精神的なものだったからである。したがって「リズム・マシンではなく、ドラマーが機械のリズムを叩いてこそテクノ」というディーヴォ評[*54]が出てくる。一方でディーヴォの来日記念公演が行われた際に、メディアに映し出される彼らの機械的で非人間的ないでたちにもかかわらず、汗をびっしょりかいて熱演するドラマーの姿に興醒めしたという意見も当然出てくる。[*55]

    このライヴとテクノロジーが本質的に抱える矛盾を少し変わった方法で攻略したのがアダムスキー[*56]である。彼はドラム・マシーン、シーケンサー、サンプラーなどの電子楽器を操り、すべてのサウンドを彼一人で作り上げ、ライヴ演奏した。そのテクニックはまず、フロッピー・ディスクに20種類もの異なる曲のリズムとベース、メロディ・ラインを保存しておく。そしてディスクを入れたキーボードに向かい半ば即興的にそれらを選んでは演奏していく。つまりシーケンサーを使いつつしかもマニュアルな演奏を取り入れてライヴを行ったのである。彼のマネージャーのフィルは次のように言っている。

    彼は新しい種類のDJなんだ。ただ彼がミックスするのはレコード盤じゃなくてフロッピー・ディスクなんだよ。[*57]

    1989年に発表された彼のファーストアルバム「LIVEANDIRECT」は彼のトリッキーなプレイが35分34秒ノンストップで聴けるライヴ盤となっている。がもちろんこのような変則的な手法が長続きするはずもなく彼はまもなくシーンから姿を消してしまう。アダムスキーは現代における音楽スタイルの飽和状態が生み出した一人であろう。

    1980年代初頭にパンク、ニューウェイヴ・シーンから登場したエキセントリックなポップ性を持つイギリスのバンドXTC[*58]は現在ライヴをしないバンドとして知られている。アルバムの売り上げなどを考えるとライヴの効果は無視できないほど大きく、またファンもライヴを望んでいたにも関わらず、1984年、XTCはアルバム制作のみに活動を限定するとライヴ活動停止を宣言した。そのイギリスらしいポップな楽曲とマニアックで実験的な音作りをライヴで実現するのが不可能になったからといわれているが、実際はリーダーであるアンディー・パートリッジのライヴ嫌いの結果だとも言われる。そのXTCがライブ停止宣言後にラジオ収録のためにアメリカで行ったギターだけのアコースティック・ライヴがあのMTVの「アンプラグド」ライヴが生まれるきっかけになったのはけっして偶然ではない。

    また演奏しないライヴを追求するとジェントル・ピープル[*59]のようにDATで音を流して、自らはダンスとパフォーマンスに専念するというバンドも現れる。今までもライヴにおいてアーティストの口パク、歌っているふりをする、ことは公然の秘密というところがあったが、ジェントル・ピープルのライヴでは歌ったり演奏したりするまねすらない。これをライヴと読んでいいのかは疑問が残るが、一つの可能性ではある。

  9. 音楽的パラダイムの転換

    元ビブラトーンズ[*60]の近田春夫は器材の発達によって誰もが音楽を作れるようになり、インターネットの普及によって、現在のプレス工場、取り次ぎ、ショップという音楽の流通形態やレコード会社、プロダクション、音楽出版社というプロモートのトライアングル体制に革命が起こり、ミュージシャンとリスナーの境目がなくなると予言している。

    インターネットではストリーミング技術を利用した音楽配信が驚くべき発展を遂げているが、とくにCD並みの音質を提供する「Liquid Audio」[*61]は注目に値する。これはインターネット上での音楽ビジネスを明確に意図して開発された技術で、ヘルパーアプリケーション「Liquid Music Player」を使うことでWWWブラウザーから扱えるようになる。高音質の音楽が聴けるだけでなく、CDジャケット、曲名リスト、ライナーノーツ、クレジットなども見ることができる。今後はRealAudio[*62]がブロードキャスト系、高音質のCDクオリティ配信がLiquid Audio、アンダーグラウンド系ではMPEG Layer 3とMODが主流になっていくものと思われる。

    大勢で音を出して演奏することで成立していたポピュラー・ミュージックがテクノロジーの発達によって個人でコントロールできるものになってゆく。ライヴを原点に持ちつつもラジオというメディアを通して発達してきたポピュラー・ミュージックはMTVの登場によって新たなステージに引き上げられるが、それはあくまでアーティストからマスへのベクトルの拡大に他ならない。

    インターネットをメディアとして捉えたときになにより衝撃的なのは個人からマスへという従来の流通形態にとらわれない不特定多数の個人から個人へ情報を伝達する手段を誰でもが手に入ることができるということであった。従来のリアリティーは急速に揺らぎはじめ、個人・個人の解放されたコードによる新たな文化を生み出しつつある。

    またそれはアマチュアとプロの境界をもあいまいにしている。アイデアと才能さえあればアマチュアからプロへはほんのわずかの距離しかないことをケンイシイ[*63]は証明したが、いずれはアマチュアとプロという区別さえ消滅してしまうだろう。

    かつてアルビン・トフラーが「第三の波」[*64]において、生産者と消費者が融合したプロシューマーの出現を予想したことを思い出そう。交換のための生産活動が消費活動に組み入れられることによって、生産と消費が一体化した新しいタイプの人間が現れるというのである。

    ここに19世紀のレトロスペクティブを見出せるのは興味ぶかい。行きつ戻りつ芸術的感性は確実に変化している。

  10. 参考文献